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“山より大きなイノシシは出ない”
いろいろな心配事や悩みがあっても、成すべきことを精一杯やって、後は時の流れに任せればいつかは氷解するものであるし、切羽詰った状況に追い込まれたとしても、人事を尽くして後はジタバタせず、成り行きに任せることが大事である。
“親が拝めば子供も拝む 親が笑えば子供も笑う”
何でもない言葉のようですが、子供は親の姿を見て育ちます。日頃の親の表情や言動を子供はちゃんと見ているのですね。「教育と躾」の躾は家庭でないと出来ません。 学校で何かあったら、子供の方に過失や責任があるのに、そのことは棚に上げて、すぐ学校に乗り込み、校長や先生を吊るし上げにする親の多くは、家庭での子供の躾がきちんとされていないのでしょうね。そんな親を持つ子供は、先生や校長を敬う気持ちはなく、ひいては自分の両親まで蔑ろにすることでしょう。好き勝手なことをしても叱ることもなく、結局は人に迷惑を掛けても痛痒を感じることのない大人になっていくのだと思います。
“ 足るを知らぬ貪りは やがては我が身を食い潰す”
※これは近所のお寺の掲示板に張り出してあったものです。 昨年の春のことであるが、お寺に用事があって友人と一緒に或るお寺に立ち寄った。大勢の檀徒さんを前にしてご住職が仏教寓話を話されている最中で、そーっと後ろの方に座り友人と正座して聞いていた。私のよく知っている寓話である。その後、ご住職が徐に「頂に登りて見れば山並みの 峰の奥にも嶺は続けり」と、口にされたのである。これには驚いた。 話は遡るが、私が昭和36年に神戸の親戚の家に間借りして、旋盤工見習いをしていた時のことである。休日にはよく古書店巡りをしては古本を2,3冊買っていたのだが、或る日、一冊の本が目に止まった。背表紙の文字が半分消えかかっていたのだが、何となく気になって手にしてみると『姓名の真理』と書かれている。目次を見ると、その本は運命論と精神哲学の内容であった。観相・易学・命理学(四柱推命術)・姓名術の四部構成で、パラパラと捲っていくうち奥深い内容に惹かれてすぐ購入した。著者は永杜鷹堂という連山塾という運命占術の塾を開講している人で、一読してこういった方面の大家であることを知ったのであるが、平易な文章で説かれており、暇さえあれば幾度も読み耽ったものだ。私が占術に興味を持つようになったのは、この書がキッカケである。以後、易や四柱推命術を研究するようになった。 話を戻そう。この本の精神哲学編の中に著者の作った句が載っていたのであるが、これが先程の「頂に登りてみれば山並みの 峰の奥にも嶺は続けり」の句である。これは、一つのことを長年に亘ってようやく自分のものにしたとしても、それは一里塚であって、その先にはまだまだ奥深いものがあって、一生が研鑽と勉強であることを教えている。 それからは私の「好きな名言・名句」の一つになったのであるが、よもやこの句を知っている人がいるとは夢にも思っていなかった。何しろ、限定本でおまけに古書であるだけに、今の時代にいくら古書店を巡っても手には入らない本なのだ。おそらく、古くからの占術師も持ち合わせていないだろう。 嬉しくなって檀徒が引き上げた後、ご住職に尋ねてみると、何と、奥の書棚から私の持っているものと同じ『姓名の真理』を持ってこられたので、二度ビックリである。今から30年前に東京神田の古書店でこの本を見つけられたそうで、私と同様、ご住職もこの本が発端となって易や観相、四柱推命術を勉強され、よく檀家さんから相談を受ける度に占ってあげているそうだ。また、この本を手にした時、この句が目に留まって一遍に気に入り、それからは時たま、檀家さんにこの句を下敷きにいろいろなたとえ話をされていることを話された。 これがご縁となり、同じ同好の士としてご住職の元に時々お邪魔してお付き合いをいただいている。 # by ys716 | 2004-11-13 10:24
【四季の心】
人に会う時は 春のように暖かい心で 仕事をする時は 夏のように情熱的な心で 物事を考える時は 秋のように澄んだ心で 自分を誡める時は 冬のように厳しい心で # by ys716 | 2004-11-13 10:21
【つもり違い十ヶ条】
高いつもりで低いのが教養 低いつもりで高いのが気位 深いつもりで浅いのが知識 浅いつもりで深いのが欲望 厚いつもりで薄いのが人情 薄いつもりで厚いのが面皮 強いつもりで弱いのが根性 弱いつもりで強いのが自我 多いつもりで少いのが分別 少いつもりで多いのがムダ # by ys716 | 2004-11-13 10:20
【丁度良い仏様の言葉】
あなたはあなたで丁度良い 顔も体も姓名も それらはあなたに丁度良い 貧も富も親も子も 息子の嫁もその孫も みんなあなたに丁度良い 幸も不幸も喜びも 悲しみさえも丁度良い 歩いたあなたの人生は 悪くもなければ良くもない あなたにとって丁度良い 地獄へ行こうと極楽へ行こうと 行った所で丁度良い 自惚れる要もなければ 卑下する要もない 上もなければ下もない 死ぬ月日さえも丁度良い 仏様と二人連れの人生は 丁度良くない筈がない これで良かったと思った時 感謝の心が生まれます
★追悼のことば★
本日ここに 平成16年度広島比治山陸軍墓地合同追悼式が ご遺族 ご来賓の御出席のもとに 厳かに執り行われるにあたり 戦没者の御霊に対し 謹んで哀悼の誠を捧げます 現在、我が国は豊かな繁栄と平和を享受しております。しかし、こうした繁栄は、明治・大正・昭和という近代の歩みの中で不幸にしておこった戦争において、尊い命を捧げられた多くの御霊の犠牲の上に築かれたものであります。亡くなられた方々の無念さ、そして家族を亡くされ、限りない悲しみと苦難の中で、生き抜いてこられた御遺族の方々の心中に思いをはせる時、万感胸に迫るものがございます。 戦後58年が経過し、あの被爆の惨禍から 復興を成し遂げた我が広島市は 戦前には想像もできなかったほどの繁栄をみております。これもひとえに 諸霊の御加護と、御遺族の皆様の苦難に満ちた御労苦と、温かい御支援の賜物でございます。 今後も私たちはこの豊かな生活が諸霊の尊い犠牲により 培われたことを忘れることなく二度と不幸な戦争を繰り返すことのないよう 世界恒久平和の実現に向けて より一層の努力を傾注してまいることを お誓い申し上げます。 最後に、諸霊の御冥福をお折りし、併せて御遺族の御健勝と御多幸を心から 祈念いたしまして追悼の言葉とさせていただきます。 平成16年4月4日 広島市議会議長 浅 尾 宰 正
★追悼の辞★
平成16年度「広島比治山陸軍墓地合同追悼式」が執り行われるにあたり、戦没者の御霊に対し、心から哀悼の誠を捧げます。 えんじょうにこの地に眠る皆様は、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、あるいは遠い異郷の地に亡くなられました。 最愛の肉親を失われた御遺族の深い悲しみとその心情を察するとき、今なお、痛恨の念を禁じ得ません。ここに改めて御冥福をお祈り申し上げます。 59年前、人類史上最初の原爆の惨禍を経験したヒロシマは、その悲劇を二度と繰り返させないように、被爆の実相を世界に伝え、21世紀を核兵器のない「平和と人道の世紀」とするため、様々な平和への取り組みを行ってきました。しかしながら、昨年、平和的解決を望んだ世界の声をよそにイラク攻撃が始まり、一年を経過した今もなおテロによる犠牲者が後を絶たないなど、世界情勢はいまだに憂慮すべき状況にあります。 私たちは、こうした惨禍が繰り返されることのないよう過去の悲惨な経験を次の世代に語り継ぐとともに、恒久の平和を確立するという重大な責務があることを再度認識し、今後も引き続き平和への取り組みを行ってまいります。そしてそれが、戦争によって亡くなられた皆様の付託に答える道であると確信しています。 最後に、この地に眠る御霊の御冥福と御遺族の皆様の平安を祈念いたしまして、追悼の辞といたします。 平成16年(2004年)4月4日 広島市長 秋葉忠利
★追悼のことば★
本日ここに、広島比治山陸軍墓地合同追悼式が挙行されるにあたり、謹んで追悼のことばを申し上げます。 わが国が、戦後新たな平和国家として歩みはじめてから、58年の歳月が経過しました。この墓地に眠る、数多くの方々は、先の大戦を始め、過去幾度かの苛烈を極めた戦いにおいて、祖国の繁栄と家族の幸せを念じつつ、自らの命を犠牲にされたのであります。 今、祭壇の前に立ち、途半ばにして亡くなられた方々の無念の想いを推し量るとき、哀惜の情、胸に迫るのを禁じ得ません。また、最愛の肉親を戦争によって失われた御遺族の皆様には、長い間、言葉に尽くせない悲しみと幾多の苦難に耐えてこられたところであり、その間の御心労と御努力の程は、察するに余りあります。 戦後我が国は、国際社会において、確固たる地位を占めるに至り、郷土広島県は、御遺族をはじめとする県民の皆様のたゆまぬ御努力により、目覚しい発展を遂げて参りました。しかし、その一方で、あの悲惨な戦争体験は人々と心の中から忘れられつつあります。 私たちは、今こそ、思いを新たにし、戦争の悲惨さや、そこに幾多の尊い犠牲があったことを次の世代に語り継ぎ、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、恒久平和の確立に力を尽くしていかなければなりません。 そして、21世紀を平和で豊かな社会とし、誰もが誇りと愛着を持ち、住んで良かったと言える、すばらしい郷土「広島」づくりに不断の努力を傾けていくことを誓うものであります。 終わりにあたり、この墓地に眠る戦没者の方々の御冥福と御遺族の皆様の御多幸を心から祈念いたしまして、追悼のことばといたします。 平成16年4月4日 広島県知事 藤田雄山
平成16年度 広島比治山陸軍墓地合同追悼式 ★式 辞★
本日、ここに多くの御遺族の皆様並びに関係者各位、また、ご来賓のご参列の下に、広島比治山陸軍墓地奉賛会主催による合同追悼式が行われるにあたり、謹んで英霊に追悼の誠を捧げます。 いま、ここ比治山陸軍墓地に安らかに眠られる英霊が、先の大戦をはじめとする幾多の戦いにおきまして、肉親と離れ妻子を残して、ひたすら祖国の安泰・興隆と、家族の幸せを念じつつ、国難に殉じ散華されましたことは私達にとりましても永遠に忘れることの出来ない深い悲しみであり、痛恨の極みであります。また、ご遺族の皆様方におかれましては最愛の肉親を失われた悲しみ、苦難に耐えながら立派に子弟を養育され、また家業に精励してこられたそのご努力に対し、心から敬意を表するものであります。 戦後も、早、58年目、英霊が故国を遠く離れた異国の地において、夢にまで見られた故郷も、戦前には想像も出来ない程の繁栄を見ております。これも偏に、英霊の尊い犠牲の上に打ち築かれたものであり、今なお祖国の発展に注がれるご慈悲、ご加護の賜物であると存知ます。そして私たちは、国の為、社会の為、家族の為に努力をし、苦難に立ち向かった方々の記憶が、決して忘れられることなく、しっかりと語り継がれていく国を造って行かなければ、この国の繁栄を維持していく事は出来ないと信じる次第です。 私達は、ここに改めて英霊の偉勲を称え、心から感謝の誠を捧げますとともに、心豊かな国家の建設に力を合わせ、平和な世界実現に渾身の努力を傾けることを堅くお誓いし、もって英霊をお慰めする所存であります。 併せて、ご遺族の皆様のご多幸を心から祈念いたしまして式辞といたします。 平成16年4月4日 広島比治山陸軍墓地奉賛会 会長 岸田文雄
【比治山陸軍墓地にフランス海軍の艦長らが参拝】
平成10年10月21日、久し振りに仏軍艦(フランス海軍のミサイル・フリゲート艦)が来広。艦長と乗組員、それに自衛隊関係者多数が比治山陸軍墓地内のフランス人墓地に参拝され、墓地奉賛会副会長の飛子大郎氏、同じく副会長の金子一眞氏、奉賛会の渦潮会の大橋操氏と私(山口)の4人でお出迎えした。艦長からは、フランス人墓地も日本人戦没者墓地と同様に、毎日欠かさず清掃と供水・供花が成されていることに感謝され、飛子大郎氏に謝意を述べられた。奉賛会からは、私の手作りの『広島比治山陸軍墓地略誌』(B5判 260頁 墓地奉賛会刊行)が10部程寄贈され喜ばれた。その折、艦長からフリゲート艦の盾と高級ワインが奉賛会に贈られ、以後、この盾を礼拝堂に飾ってある。尚、参考までに、この墓地参拝について広島日仏協会の会報の記事を以下に転載してみる。 1998年10月21日午前10時に、ラフェイエット型フリゲート艦「スュルクフ」号の艦長ボスリュ海軍中佐、ナウム総領事、ド・トロゴワ在日フランス大使館付武官海軍大佐が、乗組員10数名とともに比治山陸軍墓地のフランス兵士墓地を参拝した。総領事の挨拶の後、1分間の黙祷をして、艦長と総領事が献花した。そして毎日、この墓地の清掃をしている比治山陸軍墓地奉賛会の飛子副会長に艦長から謝意の言葉が述べられた。 〔ナウム総領事の挨拶〕 「今からほぼ一世紀前、1900年の北清事変の際、約100名のフランス人傷病兵が、日本のここ広島陸軍病院で治療を受けました。そのうちの7名の者は、手厚い看護もむなしく、残念ながらこの地で亡くなりました。広島市民のご厚意により、比治山公園南端のこの絶景の場所に、彼らのための墓地が整備されました。またその後も、比治山陸軍墓地奉賛会を中心とする広島市民の手で維持管理され、このようにすばらしい状態に保たれてきています。本日わが国の軍および政府代表者がこうして参拝いたしておりますのは、祖国のために殉じた若き7名の兵士に表敬するためだけではなく、わが国のためにかくも友好的に尽くしてくださっている広島市民に、フランスの心からなる深甚の謝意を表するためでもあります。この友好親善関係が、世代から世代へと受け継がれて、とこしえに続くことを願ってやみません。ありがとうございます」
【広島比治山陸軍墓地縁記】
真心込めて陸軍墓地の奉仕作業に励んだ、今は亡き陰の功労者飛子大郎氏は、平成13年に92歳で大往生されるまで、お仲間の2,3人と共に鎮魂の奉仕作業に励んでおられました。高齢とは言え、昭和52年以来、お亡くなりになる直前まで毎夕欠かすことなく、早朝にご自分で車を運転し、墓地に来られて2時間近くの奉仕作業。夕方にも再度来られて、清掃や供水の後片付け、その他諸々の作業を終えてご帰宅なさるのですが、朝から晩まで休む間もなく飛び回られるので、あの小さな体の何処からパワーが出るのだろうと感心したものです。その後、平成になってから、氏の、黙々と奉仕されている姿を見て共鳴した田村、向井の両氏が奉仕に加わるようになり、飛子大郎氏一人がこなしておられた作業を分担することができるようになりました。そのお陰で墓地は、いつ何方が参拝に来られても皆さん、心証をよくして墓地を後にされます。 この比治山陸軍墓地は、明治5年に大本営が広島に設置されたその年に墓地も作られたもので、秋月の乱や萩の乱、西南戦争での戦没者から、日清・日露戦役、シベリア出兵、ノモンハン事件、日独戦役、大東亜戦争など、幾多の戦争で亡くなられた軍人や軍属の戦没者の遺骨を、墓地内の4箇所の納骨マンホールの中に埋葬しております。また、昔の尋常小学校の修身書に「キクチコヘイハ シンデモラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」で有名なラッパ手の木口小平2等兵や、同じラッパ手の白神源次郎の遺骨も埋葬されています。余談ですが、この二人のラッパ手については、はじめは白神源次郎が紹介され、外国の新聞にまでラッパ手として記事にまでなりましたが、ある時を境に木口小平ラッパ手に取って代わりました。そのため「死んでも口からラッパを放さなかったのはどっちだったのか」、また「弾が胸部に当たって死んだのか、それとも首を貫通して死んだのか」、はたまた「弾に当たり死んだのに、ラッパを口から放さなかったとは考えにくい」等々の論争が今も続いており、決着がついておりません。全国各々の研究家が、独自調査に基づいた著書も沢山で回っており、いまだに結論が出ていません。 ●広島比治山陸軍墓地奉遺族会、渦潮会、電信会、若潮千通会、広島少飛会、ノモンハン会(歩兵、野砲)、船砲会、県郷友会、電運会、歩十一会、長江会、隊友会、協力会。 〔役員〕会長・岸田文雄(衆議院議員)、 副会長:宮本時一、高野清二、堀川富彦、加藤嘉文、白井丈夫、増井正次郎、澄川盛夫、教重正男。 常任理事:新田武(事務局兼任)、山下勇、川上春男、正時正、弘津常義、丸山保三、吉田只五郎、川手房之、青山幸三、古田勇、進堂一二三、浅枝憲三、田村昭三(行事部長) 理事:渡辺好枝、山口茂昭(編集担当)、駒杵幸子。 顧問:谷川和穂、中川秀直、粟屋敏信、亀井静香、増岡博之、亀井郁夫、新田篤実、窪田泰三、永田雅紀、兼桝栄二、児玉光禎、松下一男、片山繁男、伊藤直嗣,畠山国登。 〔主要行事〕 合同追悼式 毎年4月の第一日曜日、月例会(慰霊法要)毎月第一日曜日 〔主要刊行物〕 山口茂昭編纂 『広島比治山陸軍墓地略誌』 B5判 260頁 山口茂昭編集 『別冊・広島比治山陸軍墓地ガイド』 B4判 120頁 OFFICEやまぐち刊行。 山口茂昭編集 『広島比治山陸軍墓地ガイド副読本』 B5判 160頁 比治山陸軍墓地を守る会刊行。
これは、広島比治山陸軍墓地の礼拝堂にある掲示板です
広島比治山陸軍墓地再建の功労者 ああ昭和十九年、比治山陸軍墓地の埋没廃棄! これこそ原爆と敗戦を以って示された厳しい天譴でなかったろうか 前人の非を咎めず日出の台に再建なった今日 此の聖地を末永く英霊が安住する楽園とすることこそ 世界平和に立ち上がった広島市民の責務であり 悠久日本の繁栄を期し得る途であろう 私共は爰に常人の成し得ない再建の大業を成し遂げた 立石吾一、岩田日出子両氏と村田安弘氏に対し 英霊に伍して満腔の感謝を捧げるものである 比治山陸軍墓地保存協賛会 ![]() ◆関東地方◆ 東京191、神奈川県43、埼玉県42、群馬県23、栃木県19、茨城県33、千葉県55. ◆東北地方◆ 福島県58、宮城県110、岩手県76、青森県79、秋田県73、山形県83. ◆中部地方◆ 新潟県79、長野県48、山梨県21、静岡県39、愛知県39、岐阜県50、富山県26、石川県30、福井県20。 ◆近畿地方◆ 京都府29、滋賀県25、三重県37、奈良県10、和歌山県29、大阪府33、兵庫県42。 ◆中国地方◆ 岡山県232、広島県624、島根県231、鳥取県9、山口県288。 ◆四国地方◆ 香川県65、徳島県80、愛媛県113、高知県82。 ◆九州地方◆ 福岡県50、大分県28、佐賀県29、熊本県38、長崎県6、宮崎県8、鹿児島県25。 ◆北海道地区◆ 北海道7。 ◆出身地不詳◆ 189 上記以外に、墓石損壊して墓名不明が約1000柱と推定される。 ![]() 【広島比治山陸軍墓地略史】 昭和19年、比治山陸軍墓地の埋葬廃棄! ああこの冒涜こそ恐るべき原爆を以って 啓示された厳しい天譴でなかったろうか。 抑、比治山陸軍墓地は明治草昧より世界の日本となった80年の我が国運を示す、西南の役、日清・北清・日露の役より満州事変を経て、大東亜戦に至る4500有余の殉国の勇士、それは沖縄を除く45都道府県に及ぶ戦没者を葬った墓地であり、東は号砲台(現在のNHKテレビ塔)を境として、比治山の西南高地一帯に亘り、現在の再建墓地とABCC展望台を含む、景勝の地域に一基一基整然と建立され、春は桜花の霞に包まれ、秋は紅葉の錦に飾られ、展望台に至る道路は墓参道として、之を上って毎年のお盆には、市民は競ふて盆灯篭を捧げて戦没者の冥福を祈った崇敬の聖地であったのであります。 然るに、昭和19年軍市協議の下に全墓石を取り除き、これを合同墓碑に奉安合祀す るに決し、墓石は現在の再建墓地付近に掘った壕に埋め、遺骨は掘り起こして駆り納 骨堂に収納することになったのでありますが、工事半ばにして原爆、終戦になりまし たため、墓石の、或るものは壕を充した土饅頭下に、或るものは地上に折られ砕かれ たままとなり、遺骨も亦数次の台風のため倒れた仮納骨堂の周辺に散乱し、原爆の灰 と共に10数年間放置されたのであります。戦没者ために天に泣き地に哭し、その惨状誠に目を覆うものがあったのであります。 このとき、大正14年以来陸軍墓地を守った岩田日出子女史(現在85歳)は、立石吾一氏、村田安弘氏等と再建の誓いを堅め、昭和30年より5年の長きに亘り寝食を忘れて広く浄財の寄進を求め、昭和35年終わりに現在の墓地を再建し再び戦没者が安住する聖地としたのであります。 4500余の重い墓石を掘り起こし、一基2千貫に及ぶ大合同碑の建て直しや、数多き折れた墓石の組み合わせ、洗い清めての墨入れ、出生地を拾っての県別整理と遺骨を集めての合同納骨墓名簿の作成等、その労苦は誠に筆舌に尽くし難く、聞くだに自から頭の垂れるを覚ゆるものであります。 私共は此の再建なった比治山陸軍墓地を参拝する毎に、敬虔心新たに、常人の成し得ない此の偉業を成し遂げた上記の方々と、多額の浄財を寄進された同愛の士に対し、戦没者に伍して衷心から謝意を表すると共に、今爾大戦の敗戦で受けた体験から此の墓地に眠る多くの戦没者が命を捧げた日清・日露の役に、若し勝敗その所を異にしたら我が国の存立はどうなったであろうかが思い出され、此の墓地を末永く戦没者が安住する聖地とし、ひたすらに勲をたたえて静かにその冥福を祈ることが世界平和に立ち上がった広島市民の責務であり、悠久日本の平和と隆昌を期し得る途であると信ずるものであります。 ああ再び天譴を受くること勿れ! 私共はかく思いかく誡め、毎日行う焼香、供水・供花、清掃、勤行、それに今尚戦没者の瞼に焼きついている日の丸の掲揚、毎月10日の月例法要、春と秋2季の大法要を永遠に継続することを誓うものであります。 本墓地の最奥には、日清・日露戦役、北清事変、日独戦役等に於いて広島陸軍病院に入院中死亡された、清国・佛国・独逸兵の墓地が昔ながらに現存し、法要を共にしておりますが、大正14年以来、之が清掃・保全に努力せられた岩田日出子女史の清掃奉仕会方々に対しても、心から感謝を捧げると共に、此の真心が東亜各地の現地の人々にも通じて、異郷に眠る多くの我が同胞のお墓を暖かく見守って戴くことを祈って已まないのであります。 終わりに臨み、毎年3月10日は広島市長が戦没者のため、丁重な慰霊祭を行って下 さることを特記し、遺族の方々と共に謹んで感謝の御礼を申し上げるものであります。 尚、本墓地の墓名簿は県別に原籍・氏名・命日・戦病死地及び墓石の位置を記録して 保管してありますから、御用の方は当協賛会事務所にお問い合わせ下さい。 昭和39年4月10日 比治山陸軍墓地保存協賛会 # by ys716 | 2004-05-15 17:12
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